はじめに
Liigaを運営する株式会社ハウテレビジョン代表の音成洋介が、新卒外銀時代から、PEファンドへ転職し起業に至るまでの日々を、数回にわたって語ります。 第三部となる今回は、起業を考え、事業転換を迫られるまでのお話です。
前回の記事:「本当にやりたいことってなんだっけ?」もがきながら掴み取ったPEファンドでの課題発見の日々|外資系バンカーの転職・起業物語 #02
身近な起業家たちの存在が起業のきっかけに
「何が起業のきっかけとなったのか」について、要因は1つではないと思っています。
PEファンドで経営支援をしていたのも勿論そうなのですが、深層心理で起業・経営に関する事象がなければ、創業には至らなかったのではないかと思います。 すなわちConnecting the Dots、点を繋ぐと故スティーブ・ジョブズは言ってましたが、まさになんでもないような点が後からみると起業に向かう原動力になっていたのだなと感じます。
まず、私の祖父は経営者でした。70-80年代は婦人服(アパレル)で急速に業績を伸ばし、飲食にも事業を多角化。 しかし、バブル崩壊とともに、さらに手を広げた不動産で大失敗。多額の負債を抱えた結果、代表を別の人に譲ることになり、直近の話ですが新進気鋭の某アパレル会社に買収されました。
小学生の頃よく遊びに行った祖父の豪邸(差押済)や、羽振りのよいお年玉に、なにかしら畏敬の念が根底にあったのだなと思います。事業・商売の話はほとんど聞かないまま、私が創業して間もなく亡くなってしまいました。
そして、高校の先輩も点の1つ。高校時代、私は新聞委員会というところで、学内誌の発行に取り組んでました。 関西一円の新聞部・生徒会を束ねている団体にも属し、一時期代表もしていました。そこで出会った先輩が、京大の院を修了したあとすぐに起業したのです。
外銀・コンサルに複数内定し、ドリームインキュベータに行くと聞いていたのですが、「プロフェッショナルファームにいくより、起業のほうが圧倒的に成長できるよ」とあっさり蹴って創業したのをみて、「よくわからない凄さ」を感じました。
そして、私が長期インターンシップをしていたネットエイジ(現ユナイテッド)。 そこで直属の上司だったのが現在Fringe81というベンチャーの代表をしている田中弦さんです。 執行役員だったのが、いつのまにか出資を受けて独立。自分でやる楽しさについて、滔々と語ってくれました。
また、研究室の先輩がユーグレナ創業者でした。入室当初は「これを量産したら世の中が変わるぞ」と妙なカプセルを持ってきたので、おかしな人がいると笑ってましたが、あっというまに石垣島に量産拠点を設け、急成長。研究室の同窓会で年に1回は顔を会わせていますが、尊敬する先輩であります。
このように身近に起業あるいは起業に関わる人がいたというのは、後押しになったと思います。創業直前はこういったお世話になった人たちに、積極的に会いに行ったものです。 友人経由で、IT・ベンチャー系メーリングリストに入れてもらったりして、そこからIT系へのネットワークも多少拡がりました。