はじめに
東大医学部から脳外科医、そして、マッキンゼーのコンサルタントへ。そんな絵に描いたようなエリートコースから外れて、社員30人ほどのベンチャー企業の経営者に転身した豊田剛一郎さん。オンライン医療事典や遠隔診療アプリなど、日本の医療を変えるサービスを手がける「メドレー」の共同代表として、医療の未来を作るために奔走しています。
なぜ、医師の道を捨てて、コンサルタントになったのか。さらに、そこから事業会社に移ったのは、どうしてなのか。マッキンゼーで学んだことも含め、これまでの軌跡を語ってもらいました。(取材・構成:亀松太郎)
「日本の医療はこのままではヤバイ」という強烈な思い
――豊田さんは東大の医学部を出て脳外科医になったものの、現場の医師としての経験は3年半で、別の道を選択したということですね。医師という仕事に不満があったのでしょうか。
豊田:いえ、医者の仕事は楽しいと思っていました。成長して患者さんの役に立てるようになるのは面白いし、やりがいがありました。めちゃくちゃ忙しいんですけど、あまり違和感はなかった。
ただ、マクロな視点に立ったとき、日本の医療って大丈夫なのかな、という思いがすごく強くなったんです。医療の世界は慢性的な人不足なのですが、医療従事者の献身的な姿勢でその不足を補っている状態。こうした医療を取り巻く環境や体制を見ると、30年後まで持たないのではないか、と。
実は、ほとんどの医者が「このままではヤバイ」と思っているんですが、医療の制度や環境を変えることよりも、患者さんと全力で向き合うことが目の前にあるミッションです。「それでいいのか」という思いが強くなったことが、医療の現場を離れるきっかけです。最終的には、当時勤務していた病院の脳外科部長の先生に「医療を救う医者になりなさい」と言ってもらったことで、決断できました。
――日本の病院を離れて、すぐマッキンゼーに入ったのではなく、アメリカの病院に留学したんですよね。
豊田:もともと脳外科医としてキャリアを積んでいこうと思っていて、早いうちに渡米して最先端の手術を学びたいと思っていました。
そこで、学生時代から留学の準備をしていたんですが、それと時を同じくして「日本の医療はこのままでいいのか」という先ほどお話ししたような思いも芽生え始めていったんです。コンサルタントとして医療に関わる道もあるのかもしれないと考え、渡米の5日前にマッキンゼーの筆記試験を受けました。面接は渡米後に、テレビ電話で日本の担当者とやりとりして、内定をいただきました。
――今年1月に出版された初めての著書『ぼくらの未来をつくる仕事』では、「マッキンゼーのケース面接が楽しくて仕方なかった」と書かれていますね。留学中で忙しかったと思いますが、面接の対策はしたのでしょうか?
豊田:一応、英語で書かれたケース面接の本をちょっと読んだんですけど、全然わからなくて(笑)。実際に受けてみて思ったのは、