「投資銀行では、解雇は常にありうるもの」 米系投資銀行NY本社での“チーム全員即日解雇”を乗り越えて 【解雇からのV字回復 Vol.1】
2020/06/10
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世界的な景気の落ち込みに伴って、解雇のリスクを感じている人もいるのではないでしょうか。とりわけ、海外本社などに勤める人の場合、いつ即日解雇を言い渡されるかもわかりません。

大垣国弘さん(仮名)は新卒で米系投資銀行の東京支社に、ソフトウェア・エンジニアとして入社。その後、米国ニューヨーク本社に転籍しましたが、それから5年弱が経過したある日、チーム全員が即日解雇になりました。

しかし大垣さんは特に慌てることもなく、1カ月ほどで自分を解雇した同じ投資銀行の別チームへの「転職」に成功。現在は同社資本市場部のトレーディングチームでソフトウェア・エンジニアとして活躍しています。

今回は、金融の本場ニューヨークで体験した「解雇時の実際の手続きや空気感」「転職活動の進め方」、そして「苦境に立たされても変わらず活躍し続けるための心構え」についてお聞きしました。

〈Profile〉
大垣国弘(仮名) 30代 米系投資銀行 ソフトウェア・エンジニア。
日本の国立大学を卒業後、新卒で米系投資銀行日本支社に入社。トレーディングシステムのソフトウェア・エンジニアとして経験を積んだのち、アメリカ本社に転籍する。転籍から約5年で解雇されるが、1カ月後に別チームへの転職に成功。現在に至る。


【目次】
・米国本社転籍を目指し、15時間の通常業務の後に徹夜でプログラミングを勉強
・雪の降る朝の唐突な解雇。自席にも戻れぬまま建物外に出された
・スキルと人脈を活用して、元の会社から複数オファーを獲得。「転職は新卒の就活よりよほどラク」
・「米国の投資銀行では、解雇は突然雨に降られるのと同じくらいありふれたもの」

米国本社転籍を目指し、15時間の通常業務の後に徹夜でプログラミングを勉強

――大垣さんの経歴について簡単に教えてください。

大垣:大学を卒業後、今勤めている米系投資銀行の東京支社に、ソフトウェア・エンジニアとして入社しました。その後、3年目でニューヨーク本社の資本市場部の自己勘定トレーディング(投資銀行の自己資金を使って金融商品を売買する取引)チームに配属されました。

しかし転籍から約5年が経ったころに、チームが解散になり、私を含む30人がまとめて解雇になりました。

そこから1カ月ほど転職活動をしたのち、結局同じ投資銀行の別のトレーディングチームに再就職し、現在に至るまで働いています。

――どうしてニューヨーク本社に転籍しようと思われたのですか。

大垣:理由は2つあります。第1の理由は、利益により直接的に関わるような仕事がしたかったからです。

私見ですが、投資銀行のIT部門は、IT自体でお金を生み出すことができません。どこまでいってもコストセンターだからです。

私が日本で関わっていたのはトレーディング関連のシステムで、典型的なITの仕事でした。だから、利益に直結する仕事をしているフロントオフィスで実績を積みたいと考えました。

第2の理由は、海外で働いてみたかったからです。東京から出てニューヨークやロンドン、香港といった世界トップクラスの金融都市で働いてみたいと考えたのです。

結果的には一番行きたかったニューヨークの本社に転籍できたので、決まった時はうれしかったです。

――日本人が日本支社から海外の本社に転籍するのは、言語や文化の面でハードルが高かったのでは。

大垣:実は職種によっては、必ずしもハードルは高くありません。

過去のデータから統計分析をすることで市場の変化を予測する「リサーチャー」と呼ばれる職種や、リサーチャーが使うソフトウェアやデータを作る開発エンジニアは、言語や文化の壁にぶち当たることはさほどないと思います。

なぜなら、こうした職種の仕事には言語や文化がほとんど無関係だからです。実際リサーチャーの中には統計分析の技術は一級品でも、英語がとても下手な人もいます。データエンジニアの場合も、仕事の中で地域特有の言い回しや文化への理解が求められることはほぼありません。こうした分野は育った国や文化に関係なく、世界に挑戦できる仕事といえるかもしれません。

もちろん大前提として、ハングリーな姿勢で仕事に臨んでいること、英語をある程度使いこなせることは必要です。

――大垣さんは転籍のためにどんな努力をしましたか。

大垣:まず転籍するために本社のチームのデータエンジニアに求められるスキルをリサーチしました。そして、通常業務を終えて家に帰ってから英語やプログラミングスキルを磨きました。1年目は若くて体力もあったので、15時間の通常業務後に徹夜でプログラミングを勉強していた時期もありました。

ただ、今振り返ると、英語やプログラミングを勉強するのであれば、中途半端に「駅前留学」をするよりは、一度会社を辞めて海外の大学や経営大学院などで修士号を取得し、そこから改めて海外で就職活動をするほうが効率が良いと思います。

実際に私も今の会社の後輩には、そうアドバイスしています。

雪の降る朝の唐突な解雇。自席にも戻れぬまま建物外に出された

――転籍から約5年でチーム全員が即日解雇されたとのことですが、なぜそのような事態になったのでしょうか。

大垣:リーマン・ショックのころから進んでいた規制改革の波に、私のいたチームが巻き込まれた結果です。

私のいた投資銀行以外でも、アメリカの大手金融機関の多くでプロップトレーディングのチームがスピンアウトして独立したり、名前を変えてやるようになったり、完全に解散してしまったりと、色々な形で規制の影響が表れていました。

その流れの中で、経営陣が下した判断が「会社の自己資金のリスクを大きく持つプロップトレーディングを削減しエージェンシートレーディング(金融機関が投資家から委託された注文の取引執行する仕事)への注力」だったのです。

――当日、どのような流れで解雇が言い渡されたのですか。

大垣:冬のある朝、雪が降る中を出勤すると、社内放送でチーム全員が会議室に呼び出されました。メンバーはみんな「またあのコンプライアンスのための面倒なトレーニングか」と言いながら、ぞろぞろと会議室に向かいました。

というのも規制改革の一環で、金融機関がプロップトレーディングをする場合、、コンプライアンスチームからトレーディングチームに定期的に研修が行われていました。 ところが会議室に着くや否や、シニアマネージャーの口から出たのはこんなセリフでした。

「重要な発表がある。本日付で君たちのチームはシャットダウンすることになった。君たち全員、今日でお別れだ」

続けざまに解雇通達書などの書類が渡されてサインをさせられ、社員証を取り上げられました。ほとんどのメンバーは淡々と手続きを済ませていたのですが、途中で女性のメンバーが感情的になり、ボロボロと涙を流し始めました。

すると解雇通達書を回収していた人事部の女性までもらい泣きし始めて……。「いやいや、あなたはクビになっていないでしょ」と、あの時は心の中でツッコまずにはいられませんでした(笑)。

あとはそのままセキュリティーガードに連れられる形で建物の外までエスコートされました。自分のデスクに戻ることもできず、私物を置いてきた人は「セキュリティーガードに持ってきてもらうから、本人は建物の外に出るように」と言われていました。

先ほども申し上げた通り、ほとんどのメンバーはクールに振る舞っていたのですが、いざ建物の外に出ると、なんだかみんな寂しくなってきて、誰からともなく会社近くのレストランバーに行くことに。そこで夕方まで思い出話をしながら飲み食いして別れました。

――その日からいきなり給料がゼロになったのですか。

大垣:いえ、他の投資銀行も同じだと思いますが、解雇される場合は少なくとも2カ月程度の給料の保証があります。他にも退職金の積立制度みたいなものもあるので、次の仕事が見つかるまでのお金の余裕はそれなりにあります。

私がいたチームの場合その年の業績が良かったので、本来2カ月の給与保証が5カ月に延長されていました。業績不振による解雇ではなかったこともあり、会社側もかなり良心的に対応してくれました。

スキルと人脈を活用して、元の会社から複数オファーを獲得。「転職は新卒の就活よりよほどラク」

――解雇後の転職活動は、どう進めたのですか。

大垣:私の専門性はIT技術、なかでも電子トレーディングシステムの開発スキルです。

これを前提に元の会社の人脈に思いを巡らせ、「社内の○○のチームなら自分が役に立てるかもしれない」という形でアタリをつけ、会社のメールや電話、Linkedinの個人アドレスなどからアプローチをかけていきました。

そこからは、向こうに興味があれば「じゃあ明日ランチでもしよう」という話になり、お互い「できる仕事」と「してほしい仕事」をすり合わせたあと、利害が一致する場合はマネージャークラスとの面接をセッティングしてもらう……という流れでした。

リスクマネジメントのチームや調査部のチームからもオファーがありましたが、今いるトレーディングチームからのオファーを受けることにしました。正直、新卒の就活よりかなり簡単でした。

――解雇されたのに、簡単と言えるのはすごいですね。

大垣:実は思われているほど解雇された後の転職活動は難しくないんです。誰かが辞めたポジションを見つけ、その仕事がどんな内容で、どんなスキルが必要かを把握していれば、マネージャーやシニアとの面接まで進められると思います。

新卒に比べ、中途のほうが語れるものが多くあるので基本的に簡単だと感じます。また、数年間働いていれば、身に付けた強みに加えて、コネクションもあるからです。一方、新卒のほうが業務経験がないので難しいと思います。

――日本に戻る、他社に転職するという選択肢はなかったのでしょうか。

大垣:その選択肢は考えませんでした。まだニューヨークで5年ほどしか働いておらず、もっとここにいたいと思ったからです。

労働ビザの関係で、他社への転職も最初から検討しませんでした。というのも、アメリカは労働ビザの管理が非常に厳しく、私のように日本の支社からアメリカの本社に移ってきた「社内転職」の場合、会社に紐付いた労働許可ビザなので、アメリカの中では簡単に他の会社に転職活動することができないのです。

結果的には1カ月で転職できましたが、内心ヒヤヒヤしました。

――30人のメンバーのうち、他の方たちはどのようなところに転職されたのですか。

大垣:4分の1は私のように同じ投資銀行の中の別チームに再就職しました。別の4分の1は自分たちでヘッジファンドを立ち上げました。残りは散り散りになって、他社に就職しています。

「米国の投資銀行では、解雇は突然雨に降られるのと同じくらいありふれたもの」

――解雇という逆境にもかかわらず、淡々と対応されているように感じます。どうすれば大垣さんのように、逆境の中でも活躍し続けられるのでしょうか。

大垣:この業界には「ある日突然クビになる可能性」が常にあります。なので、新卒で入ってきた1年目の若手も、みんな「いつクビになるかわからないから、どこに行っても通用するスキルを早く身に付けたい」というメンタリティです。

まして日本で働いている人なら、万が一解雇されるにしてもかなり時間的猶予があるはずですから、過度におびえる必要はないはずです。

転職活動も、何も難しいことはありません。誰か辞めればポストが空く。そのタイミングでポストに見合うスキルを持っていることをアピールできれば採用される。シンプルな話です。

要は日々の仕事の中で、しっかり専門性を高め、人脈を構築できているかどうかだと思います。

コラム作成者
Liiga編集部
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