はじめに
京都大学法学部を卒業し、モルガン・スタンレー証券へ新卒入社。その後UCバークレーにてMBAを取得。現在は、企業と応募者のフィットを図るサービス「mitsucari(ミツカリ)」を提供する株式会社ミライセルフを起業した表 孝憲(おもて・たかのり)氏に、自身がこれまでに積み重ねてきたキャリアについてのお話、その歩み方についてのアドバイスを伺いました。プロフェッショナルファームで働いている方、海外留学、起業を考えている方は必見です。
3回に渡ってお届けいたします。第1回は、新卒就活からモルスタでの日々についてお話しいただきました。
・強豪アメフト部を率いるも、全国大会で勝てず地獄の日々を味わう…
・自分を採用する会社は馬鹿だと思っていた。
・常にバッターボックスに立っていると思え! ~モルスタ時代
強豪アメフト部を率いるも、全国大会で勝てず地獄の日々を味わう…
ーーご出身は京都大学とのことですが、どのような大学生活を送っていたのでしょう?
表:法学部でしたが、一言で言うと勉強よりもアメフト一色で過ごした学生時代でした。4年次には攻撃のリーダーと副キャプテンを務め、留年した5年目もコーチ的な役割を担いつつ、勉強に打ち込んでいました。
ーーアメフトは戦略性も求められるスポーツですよね。
表:仰るとおり、戦術が非常に重要な競技です。ですので、練習はもちろん、戦略を考えることにも多くの時間を費やしました。
毎試合後、4年生を中心に「どのプレーでそれぞれが何ヤード進めたか」「誰がボールを持ってどんな動きをしたか」といったことを“Stats”(スタッツ)と呼ばれる記録に残し、分析を行います。
現在は分析専門のスタッフがいるそうですが、当時の京大ではプレイヤー自身が分析も行っており、私はランとパスという2つの攻撃要素のうち、ランを中心に分析していました。
ーー分析したことをどのようにプレーに結び付けていたのでしょうか?
表:アメフトには攻撃と守備以外に、キックが行われるプレー全体を指す“キッキング”というプレーがあるのですが、これは「とても重要」だとよく言われているにも関わらず、コートの広さから乱雑なプレーになりがちな部分でもあります。
しかし、陣取りゲームのようなアメフトの特性を考えると、持って走るよりもよりヤード数(距離)を稼ぎやすいキッキングを緻密に行うことこそが効率のいいプレーに直結するはず。
そう考えた私は、「キックオフリターン」という、キックオフ(試合開始時)の際、守備側へ蹴られたボールを攻撃側が返すプレーを研究しました。結果、大きな成果をあげ、メンバーのキッキングに対する意識も変えることができました。
ーーそれは試合の成果にも繋がったのでしょうか?
表:それが、私の代は最終学年の試合で負けてしまいました。
悪くとも全国3位までに入って当たり前と言われた強豪チームにも関わらず、非常に早い段階で負けてしまったので、そこから数ヶ月は、責任感やその後の試合に対するプレッシャーで、精神的に地獄のような日々でした。
私達の代でチームの方針を大きく方向転換したのですが、その改革が甘かったことも敗因のひとつだったと思います。そして、その全責任は確実に私達……というか、私にありました。
メンバーに対する責任感からの苦しみを抱えつつも、これまで目標としてきた日本一にはもうなれないのに、責任を持ってやれるところまでは頑張らなくてはいけない。これは本当に辛かったですね。
ーー5年次はその経験を経たうえで、コーチとしてチームに携わったのですね。
表:はい、この経験があったぶん、より思いを込めて指導にあたれたと思います。主力選手がほとんど抜けてしまった厳しい状況であっても、私達の代に比べて彼らのほうが良い結果が出せたことにも感動しましたし、同時に自分が選手だったときのことを思い出して、よりいっそう後悔しました。
自分を採用する会社は馬鹿だと思っていた。
ーー就職活動はどのように始められたのでしょうか?
表:アメフトを4年の11月に引退して、就活を始めたものの、その頃の僕は廃人同然でした。
4年間全力で頑張ってきたアメフトで結果が出せなかったわけですから、自分を「ただの負け犬」だと思っていたし、「私のような人間を採用する会社なんて無い、むしろ採用したらその企業は馬鹿だ」と考えていたくらい。今思うと、やや病気のような精神状態だったのかもしれません。
大学の先輩から「面接を受けに来い」と連絡があったのは、そんな時でした。だけど当時の私はとても面接を受ける気持ちはなれず、どうしても嫌だったので旅行がてら海外にまで逃亡したのですが、なかば無理やり呼び戻され、最終的に面接を受けに行くことになりました。
ーー面接結果はいかがでしたか?
表:そんな気持ちで受けて結果が伴うわけもなく、当然落ちたのですが、この面接に落ちたことが「悔しい」と思う気持ちを思い出させてくれました。
失礼な話ですが、面接官に対して「あなたが学生時代に見た地獄の100倍以上を僕は見てきている。ちょっと社会人をやったくらいで頑張った気になるなよ!!」くらいの反骨精神を覚えました。
この面接をきっかけに「少し自分を振り返ってみよう」と思って、エントリーシート(ES)を書き始めました。真剣に就職活動に向き合う気持ちが固まったきっかけだったように思います。
さらに、家でESを書いていたところ、それを見た2つ上の兄が「そんな内容じゃどこにも通らないぞ」と、『絶対内定』という有名な書籍を紹介してくれました。
「与えられたことをやる」ということに飢えていたのもあり、そこからは狂ったように就活対策を始めました。それこそ年末年始は1歩も自分の部屋から出なかったほど。
ーー就活対策をしてみてどのように変わりましたか?
表:徐々に「アメフトの結果はダメだったけど、意外と自分には頑張っていたところもあったな」とか「こういうところは良くなかったな」といった感じで、自身を客観的に見られるようになってきました。
アメフトの監督にも、「一流の人間になれ。そうすれば、試合もおのずと勝てる」とよく言われていたことを思い出しました。
就活を通して自分を振り返るうち「結果としては負けたけど、一流の人間になる可能性はまだまだあるし、頑張らなければいけないな」と、気持ちの整理をつけることができました。
ーーその後、志望業界はどのように絞っていったのでしょう?
表:まず「どんな仕事にでも就けるとしたら、自分は何をしたいか」と考えました。
それでも最初は「アメフトばかりで勉強はあまりしてこなかったけど、勢いはあるからセールスなら向いているのか?」というように「自分ができそうなこと」ばかり考えてしまっていたのですが、途中で「それは違うな」と気が付いて。そこからは「何でもできるとしたら何がしたいか」を軸に考えるよう、方向転換しました。
私が求めたのは、「若くして成功でき、給料も高く、実力があれば1年目でも試合に出られ、ストイックに努力する必要があるけど頑張っても結果が出ないこともある」……ということ。つまりアメフトに通じる部分です。
この考えを突き詰めた結果、成果主義で若くして活躍できる「外資系」というワードが出てきました。
ただ、その答えを出した時点で欧州系の外資系証券はすでに選考が終わっていました。そこで、まだ選考に参加可能だった米系4社を受けることにしました。その他にもコンサル企業やリクルートなど約10社にエントリーしたのですが、先輩から徹底的に面接対策をしていただいたこともあり、ほぼすべての企業で選考を進めることができました。
ーーその中でモルガン・スタンレー証券に決めたのは、どんな理由からでしょう?
表:最初にモルガン・スタンレー証券と戦略コンサルファームから内定が出たので、その時点で選考途中の企業はすべて辞退させていただきました。
決めた理由のうちいちばん大きかったのは、まだ内定が何も無い状態の僕に内定をくださったこと。いただいた当初も、正直「こんな僕に内定を出すなんてすごい」と思って、感動していました。
コンサル企業からも内定をいただきましたが、証券会社と比較した際、スポーツマンだからこそ持っている野蛮さのような部分で、自分には金融業界の方が合うように感じたこと、さらにいちばん最初に内定を出してくれた企業だからこそ感じた感動が最後まで効いていたこともあり、モルガン・スタンレー証券への入社を決めました。
常にバッターボックスに立っていると思え! ~モルスタ時代
ーーモルガン・スタンレー証券では、どのような業務にあたっていたのですか?
表:最初に配属されたのは債券部で、比較的小規模な機関投資家の方々に向けたセールス業務を担当していました。たくさんのお客様に向けて、かたっぱしから電話やメールをしたり、時には手紙を書いたりと、コテコテの営業をしていましたね。
金融商品は金利とクレジットに大きく分かれるのですが、私は新しい商品が常に出続けているクレジット商品を担当していたので、その頃は「新しい商品をメールやプレゼンできる形にまとめて、ご紹介したもののうち興味を持っていただけた商品をさらに詳しく説明する」といったことをよくやっていました。
ーーなぜ新しい商品に注目したのでしょうか?
表:なぜかというと、ものすごい数の商品が次々と出てくるからか、先輩方でもあまり新しい商品を勉強していない場合があることに気付いたからです。
経験年数のある先輩たちはコネクションで数字をあげられることもあるので、新しい商品を学ぶ必要がなかったのかもしれません。
ですが私は、「スタートラインは一緒なのに、商品に詳しくなるだけで差別化できるならこれは頑張った方が得だ」と強く思ったので、日々新たな商品の英文説明書を読んでは必死で翻訳・理解し、まとめる作業を繰り返していました。
ーー当時、何件くらいのお客様を担当されていたのでしょうか?
表:100件弱といったところだと思います。少ない方だと5、6社の場合もありますので、これは機関投資家への営業担当が持つ数としては、相当多い方だと思います。
ーー担当件数はどうやって増やしていったのですか?
表:先輩方が持っている大きなアカウントのうち、数字の上がらないところが出た時、常に仕事ができそうな雰囲気を出していれば、自分が打席に立つ順番、つまり営業の機会が回ってくることもあるんです。
入社したばかりの頃、先輩から「常にバッターボックスに立っていると思え」とよく言われていました。
「どんな仕事も、どのお客さんにも、手を抜かずきちんと仕事をしていれば、周りはかならず見ている」という言葉をずっと意識してきたからこそ、担当数を増やしたり、日本で唯一私だけが、ある商品を売ることができたりといった結果を残せたのだと思います。
また、私が早い時期から見つけて社内でもかなり詳しく知っていると言われていたマニアックな商品が、偶然リーマン・ショック時に動向をチェックするための指標になり、運良く時流をとらえられたという出来事がありました。
社内で「この商品は見ておかないと駄目じゃないか!」と話題になった1ヶ月以上前にレポートをまとめていたことによって、先輩が担当しているお客様にもレポートを転送してくれと頼まれるようになりました。
それまでは結果が見えないうえ社内でも大して認識されず、辛いことも多い毎日でしたが、この経験により「どうすれば結果が出るか」のコツがわかりました。
私の場合は「誰もやっていないことを、なんとなくでもいいからやっておく」ということで、それを実践していたら目に見える結果が出て、改めてその正しさを実感できたように思います。
ーー外資系証券というとやはり激務のイメージが強いですが、当時の具体的な働き方について聞かせていただけますか?
表:勤務時間は、だいたい午前6時半から夜0時まで。トレードの際にミスがあってはいけないので、自分にとって集中力が持つ最大時間である17時間半を目安として、働くようにしていました。土日は2日のうち、1日半ほどは働いていましたが、これは仕事というよりも、会社で勉強していたという方が正しいかもしれません。
ーー入社前に抱いていたイメージとのギャップを感じた出来事って、何かありましたか?
表:こんな働き方だったので、最初の1年くらいは家と会社の往復で、遊びに行くようなこともまったく無かったのに、意外とお金が貯まりませんでしたね (笑)。
周りが豪快にお金を使うので、それに合わせているといつの間にか私のお金もどんどん減ってしまって。
私が新卒入社した頃はベースもボーナスも今よりかなり低かったのですが、それにしても冷静に考えると、「生活が大変」というのはやっぱりおかしいですよね。
暮らし向きはやや派手になるものの、後輩ができたり、リーマン・ショックでボーナスがゼロになったりと、いろいろなことがあったので、それで大変だったのかもしれません。アソシエイトから位が上がったあたりから、やっと貯蓄もできるようになりました。
おわりに
アメフトに打ち込んだ学生時代から、就職活動を経て、外資系投資銀行でがむしゃらに働いていた様子が伝わってきたのではないでしょうか。 次号ではMBA留学を経て起業をはじめるまでのエピソードをお話しいただきます。